2004年に勤務先が原因でパニック障害とうつを発症して、その後退職。現在も治療継続。まだまだ周囲の助けが必要だけれど、少しずつ回復しています。
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■2005.7.12.からブログスタート
最初の日に書いた記事たちは
こちら⇒「2005.7.12.」
■但し、一度ブログを引っ越した為に画像が無い記事が多いです。
引っ越し前のブログは
こちら⇒「てくてく日記(引っ越し前)」
最初の日に書いた記事たちは
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こちら⇒「てくてく日記(引っ越し前)」
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なんていうかな。
結構な頻度で昔を思い出す。
思い出すことでしか、自分が元気になったという実感がもてないのがあるからかもしれない。
検査で状態がわかる病気ではない。
レントゲン、MRI、CT、血液検査etc...何か目に見えるもので、わかる数値で自分の状態を客観的に見ることが出来ればどれほど楽か。
今、自分が「良くなった」と実感できる瞬間は、
昔の自分と比較することと、薬の数かな。
そんなこんなで、今日も母と昔を思い出して話してた。
昔を思い出すと、涙が出てくる。
凄い、迷惑かけたからな。
今では信じられないけれど、23歳から25歳にかけての酷さったら無かった。
良く家族が共倒れにならなかったな、と思うくらい。
すごく酷かった。
母のおかげで、父のおかげで、弟のおかげで、乗り越えられた。
もちろん、主治医、上司、友達、先生、仲間たちのおかげもある。
最近は、母が「今だから言える」と言いながらあの頃の事を話してくれる。
私はほとんど覚えてないんだけれどね。
今日話したのは、24歳の頃のこと。
24歳の7月まで、母は仕事をしながら私の看病をしてくれた。
それというのも、母の後釜が見つからなかったからだ。
母は、私が就職する頃に、勤務先でケアマネジャーとして地域包括ケアセンターだったかな?を立ち上げたんだ。
一人職場で、最初凄い大変だったらしい。
そんな大変な時に、私が倒れて、母はどれだけ大変だっただろう。
最初実家に連れて帰られた1ヶ月、母は昼休憩に帰って来てくれて私の様子を見て、すぐ職場に戻って行っていた。
私が父との折り合いが悪くて、実家に居られなくなった時、母は私が暮らしていた家に一緒に住んでくれて、そこから仕事に通ってくれていた。
車で片道1時間以上かけて。
それなのに、疲れて帰ってきてくれた母に、私は溜まっていた怒りをぶつけていた。
母が悪いわけじゃない。
他に怒りを発散する場所がなかったからだ。
でも、それはあまりにも理不尽な怒りで、その上、あまりにも大きな怒りで、
毎日、母を正座させて、平均で3時間、長くて5時間、怒鳴り散らしていた。
それが半年以上は続いたんだ。
なんて、酷い娘だろうね。
母は良く耐えてくれたと思う。
おかげで私は、溜まっていた怒りを吐き出すことが出来て、大分楽になった。
テレビも禁止、新聞も禁止、他人とメールするのも電話するのも禁止という環境が1年近く続いた。
1年以上だったかもしれない。
それでも母は耐えてくれた。
「今だから言えること」と言いながら母が教えてくれるのは、
そんな頃でも、私が寝ている時、お風呂に入っている時、母がひとりでスーパーに行く時など、こっそりとメールしていたらしい。
怒鳴っている間は、隙を見ては、仕事のこととか、料理のこととか考えていたらしい。
それを聞いて、私は罪悪感が少し拭われた。
そんな母だから、私はここまで良くなれたんだと思う。
仕事をやめてからは、母は週に2回ほど父の食事を作りに実家に通っていた。
だけれど、滞在時間はわずかに1時間ほど。
私がもたなかったから、母はとんぼ返りをしなくてはいけなかったのだ。
父も良く耐えてくれたと思う。
母に「大分良くなったでしょ」と言ったら、「まだまだ」と言われた。
自分では、この1年で大分元気になったと思うけれど、やっぱりまだまだ母への負担は大きいのだと思った。
ちなみにこの1年で出来るようになったこともこの間話をした。
・料理を作る回数が増えた
・車が運転できるようになった(天気が良い日は、習い事までの片道を運転したり、ひとりで通院したり)
・退行が減った
・バスに乗れるようになった
・音訳に通い始めた
・理学のキャンプに参加できた
・テレビが見れるようになった
・パソコンをする時間が減った
・外出が増えた
・音楽が聴けるようになった
・少しだけど運動するようになって、ちょっとだけど痩せた
・トイレ掃除が少し出来るようになった
そんな感じかな。
もっと出来ること増やしていかないとね。
一歩一歩だ。
日々、感謝だ。
結構な頻度で昔を思い出す。
思い出すことでしか、自分が元気になったという実感がもてないのがあるからかもしれない。
検査で状態がわかる病気ではない。
レントゲン、MRI、CT、血液検査etc...何か目に見えるもので、わかる数値で自分の状態を客観的に見ることが出来ればどれほど楽か。
今、自分が「良くなった」と実感できる瞬間は、
昔の自分と比較することと、薬の数かな。
そんなこんなで、今日も母と昔を思い出して話してた。
昔を思い出すと、涙が出てくる。
凄い、迷惑かけたからな。
今では信じられないけれど、23歳から25歳にかけての酷さったら無かった。
良く家族が共倒れにならなかったな、と思うくらい。
すごく酷かった。
母のおかげで、父のおかげで、弟のおかげで、乗り越えられた。
もちろん、主治医、上司、友達、先生、仲間たちのおかげもある。
最近は、母が「今だから言える」と言いながらあの頃の事を話してくれる。
私はほとんど覚えてないんだけれどね。
今日話したのは、24歳の頃のこと。
24歳の7月まで、母は仕事をしながら私の看病をしてくれた。
それというのも、母の後釜が見つからなかったからだ。
母は、私が就職する頃に、勤務先でケアマネジャーとして地域包括ケアセンターだったかな?を立ち上げたんだ。
一人職場で、最初凄い大変だったらしい。
そんな大変な時に、私が倒れて、母はどれだけ大変だっただろう。
最初実家に連れて帰られた1ヶ月、母は昼休憩に帰って来てくれて私の様子を見て、すぐ職場に戻って行っていた。
私が父との折り合いが悪くて、実家に居られなくなった時、母は私が暮らしていた家に一緒に住んでくれて、そこから仕事に通ってくれていた。
車で片道1時間以上かけて。
それなのに、疲れて帰ってきてくれた母に、私は溜まっていた怒りをぶつけていた。
母が悪いわけじゃない。
他に怒りを発散する場所がなかったからだ。
でも、それはあまりにも理不尽な怒りで、その上、あまりにも大きな怒りで、
毎日、母を正座させて、平均で3時間、長くて5時間、怒鳴り散らしていた。
それが半年以上は続いたんだ。
なんて、酷い娘だろうね。
母は良く耐えてくれたと思う。
おかげで私は、溜まっていた怒りを吐き出すことが出来て、大分楽になった。
テレビも禁止、新聞も禁止、他人とメールするのも電話するのも禁止という環境が1年近く続いた。
1年以上だったかもしれない。
それでも母は耐えてくれた。
「今だから言えること」と言いながら母が教えてくれるのは、
そんな頃でも、私が寝ている時、お風呂に入っている時、母がひとりでスーパーに行く時など、こっそりとメールしていたらしい。
怒鳴っている間は、隙を見ては、仕事のこととか、料理のこととか考えていたらしい。
それを聞いて、私は罪悪感が少し拭われた。
そんな母だから、私はここまで良くなれたんだと思う。
仕事をやめてからは、母は週に2回ほど父の食事を作りに実家に通っていた。
だけれど、滞在時間はわずかに1時間ほど。
私がもたなかったから、母はとんぼ返りをしなくてはいけなかったのだ。
父も良く耐えてくれたと思う。
母に「大分良くなったでしょ」と言ったら、「まだまだ」と言われた。
自分では、この1年で大分元気になったと思うけれど、やっぱりまだまだ母への負担は大きいのだと思った。
ちなみにこの1年で出来るようになったこともこの間話をした。
・料理を作る回数が増えた
・車が運転できるようになった(天気が良い日は、習い事までの片道を運転したり、ひとりで通院したり)
・退行が減った
・バスに乗れるようになった
・音訳に通い始めた
・理学のキャンプに参加できた
・テレビが見れるようになった
・パソコンをする時間が減った
・外出が増えた
・音楽が聴けるようになった
・少しだけど運動するようになって、ちょっとだけど痩せた
・トイレ掃除が少し出来るようになった
そんな感じかな。
もっと出来ること増やしていかないとね。
一歩一歩だ。
日々、感謝だ。
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