2004年に勤務先が原因でパニック障害とうつを発症して、その後退職。現在も治療継続。まだまだ周囲の助けが必要だけれど、少しずつ回復しています。
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■2005.7.12.からブログスタート
最初の日に書いた記事たちは
こちら⇒「2005.7.12.」
■但し、一度ブログを引っ越した為に画像が無い記事が多いです。
引っ越し前のブログは
こちら⇒「てくてく日記(引っ越し前)」
最初の日に書いた記事たちは
こちら⇒「2005.7.12.」
■但し、一度ブログを引っ越した為に画像が無い記事が多いです。
引っ越し前のブログは
こちら⇒「てくてく日記(引っ越し前)」
アクセス解析
昨日も色々考えて、お母さんに話を聞いてもらっていたら2時になりました。
お母さん、連日ありがとう。
なんたんは、大分こだわりが少なくなってきました。
こだわったらしんどいから。
昔はいろいろなことにこだわってました。
結婚、出産、仕事・・・
特にこの3つがすごかったかな。
それも大分減ってきて、
結婚と出産については、大分認めれるようになったから、
友達や同級生が、結婚・出産してもしんどくありません。
まぁ・・・仕事だけはまだまだ時間かかりそうですが。
仕事へのこだわりがなくなったら、理学のみんなとも会えるかな。
まだ、理学の仕事の話は辛いです。
理学以外の仕事の話は大丈夫になりました。
結婚・出産の話は一緒に喜べるんだけれど。
まだまだ心の修行が必要ですね。
そういや、お父さんと普通に過ごせるようになったのは、何気にまだ2年なんですよね。
今だから話せる過去のぶっちゃけ話をお母さんがしてくれました。
23の年。
病気になったけれど、働いていました。この時は、一人暮らし。
働いている時、どんどんうつがひどくなってきて、朝起き上がれなくなっていきました。
最後の方は、6時に目が覚めるのに動けなくて、12時過ぎてなんとか動いて仕事に行ったり。
行く時には、運転しながら泣いていたり、発作が起きそうになったり。
朝礼では、毎日のように過呼吸発作を起こして、頓服飲んで、保健室で一時間ほど倒れていたり。
昼休憩は、職員といるのが苦痛で、車に行って、寝ていたり。
帰り道は、路肩に止めて、先輩に電話して、毎日のように20分以上泣いて話を聞いてもらっていたり。
リハビリ中に倒れたこともありました。その頃、携帯を持たせてもらっていたので、事務室に電話して、誰かに助けてもらいました。利用者さんには申し訳なかったです。
ありがたいことに、毎週木曜日は、病院実習でした。病院の先生たちに色々教わったこと、感謝しています。毎回宿題でヒーヒーだったけれど。そしてまた日曜日には、理学療法士会の研修で出かけて勉強会とか。うん・・・頑張ったなぁ。みんなにはついていけれなかったけれど。劣等生でごめんなさい。
園に残したことといえば、
リハビリの機器を揃えたことと、
記録物を作ったこと、
そして、私が設計したトイレを4つほど残したこと、ですね。
リハビリ機器は、メドマーとかを導入したりしました。
ホットパックとか。疼痛緩和のための物理療法器具を中心に揃えました。
車椅子の補助シートみたいなのを作成したりも。
書類作成は膨大な量でした。
リハビリをするために必要な書類がなかったので、
まずは、カルテ作成から始めました。
看護師さんが記録してくれていた膨大な量のカルテ(何十年分)を整頓し、記録し、
フェイスシートを作成し、
かかりつけ医師にみてもらう指示録を作成し、
その他色々な書類(頼まれたもの、リハビリと関係ないものも)を作成したりもしていました。
利用者さん全員の疼痛チェックシートも作成しました。
全員を聞いて回るのにかなり時間がかかりました。
ケア会議資料の準備・作成・まとめとかも。
書類を元に、利用者さんに予定を聞いて、予定を立てて、全員(約80人)にリハビリ体験をしてもらったりしました。
何十年かぶりに、旧作業棟が老朽化のために、新作業棟を新築することになり、そこに設置するトイレを完成させるまでは、なんか、休めないと思ったんです。
だって、任されていたから。
トイレの設計と、工事してくださる人たちとの話し合いとか。
設計に当たり、他の施設を見学させてもらったり、
資料を作成して、みんなの前で発表したり。
現場に足を運んで、最終調整をしたり。
そして、1月。トイレの最後のチェックが終わった日に、ついに園内で倒れて動けなくなり、上司の家に連れて行ってもらい、母に迎えに来てもらうことになりました。もう、運転すらできなくなってしまいました。
そして、次の日、病院に連れて行ってもらい、仕事を休むことになりました。
4月から1月まで、がむしゃらに走り抜けた理学療法士としての10ヶ月でした。(正確には、4月の一ヶ月は介護の手伝いだったので、リハビリに重点を置けたのは、9ヶ月。あたし、よー頑張ったわぁ。てか、頑張りすぎな気がする。新卒の新人がここまでするものなのかなぁ。一人職場で。でも、こんなものなのかな。もっとできたのかな。でも、私にはもうこれで精一杯だったんだ・・・)
その後は、実家に連れて帰られて、私は寝たきりになって、一日中泣いてたり「なんでなんで」といい、人を恨んでばかりいました。
ある時には怒り爆発して家の壁に穴開けたりしてました。本当にごめんなさい。
お母さんはまだフルで仕事していました。
昼休みの度に帰ってきてくれて、ご飯食べさせてくれて、また仕事に行っていました。
電話もメールも、テレビも新聞も全部ダメで、お父さんが新聞を見ているだけで、怒っていました。理不尽ですよねぇ。
一度病院を変更したんですが、病院に行く度に調子が悪くなるので、元の先生に戻らせてもらいました。先生最高!先生に出会えてなんたんは幸せだぁ。
実家にいても、父への反感が強くてしんどいばかりなので、廿日市の自宅に帰らせてもらいました。
お母さんはついて来てくれて、身の回りの世話をしてくれました。
お母さんはそのころ、安芸郡で働いていたのですが、廿日市から安芸郡まで通ってくれました。
お父さんは、実家で一人暮らしを頑張ってくれました。
お母さんは仕事が一日あって、終わってから、実家に寄ってお父さんのご飯作って、廿日市まで帰ってきてくれて、なんたんのご飯作ってくれて。
でも、そんな疲れているお母さんに私は一日の怒りをぶつけて、お母さんを正座させて毎日5時間近く怒っていました。お母さんおなか空いてたのにね。ごめんね。なんたんはアドレナリン大放出で全然おなかすかなかったんだけどね。あはは。
その頃、お母さんにはなんたん以外との電話とメール禁止令が出ていたんだけれど、実はこっそりしていたようで、今となっては安心です。だって申し訳なかったもん。
24の年。
廿日市でお母さんと二人暮し。
お母さんは遂に、仕事を辞めてしまいました。
そして、なんたんにつきっきりでお世話してくれました。
お母さんごめんね。ありがとう。
昼からお母さんはお父さんのご飯つくりに行って、夕方には帰ってきてくれていました。
なんたんは、お兄ちゃんがブログを教えてくれたので、てくてくを開設することができて、本当に救われていました。お兄ちゃんありがとう。
だって、なんたん、文字書けなかったもん。
人に判読できる文字が書けなくなってしまいました。
園で出会えた習字の先生のところに、行かせてもらえるようになったのも、この年でした。
先生との出会いには、本当に感謝。
文字が書けないなんたんが、習字は書けるんです。不思議です。
その前に調子悪くて泣き叫んでいても、退行しながらでも、習字はできたんです。受け入れてくださった、先生に感謝。連れて行ってくれたお母さんに感謝。
あの頃は、ブログを通して出会った、同じように心の病気で苦しんでいる方や、乗り越えられた方との関わりが支えでした。勇気にもつながりました。ひとりじゃないって。そして、元気になれるんだって。
一日中パソコンするか、寝るか、怒るか、泣くかでしたね。まさに阿修羅。人生の修羅場。大変だったわー。お母さん、よく耐えてくれました。感謝。
病院の診察が9時からなのに、しんどいから、毎週ドアの前に8時15分には居ました。今からではしんじられないくらい、早起きでしたよ。もう、先生が頼みの綱だったんです。今もだけどね。あの時は本当にひどかった。
そしてなんといっても、上司のおふたりの家。これが、最後の砦でした。調子が悪くなったら、電話して、お母さんに山道を30分かけて連れて行ってもらって、上司の家で、泣いて話を聞いてもらって、さくらちゃんと遊んで。そして楽になって帰る感じです。電話もたくさんしました。いつも優しく対応してくださってありがとうございます。本当に感謝。病院が一週間に一回が限度だったので、その途中でヤバクなった時の駆け込み寺でした。何回か、行く途中に走行中の車から降りようとしたりしてました。まだまだ希死概念がひどく強かったです。
25の年。
廿日市でお母さんと二人暮し。
ようやくお母さんのメール解禁。長く禁止していてごめんね。
24の時も、25の時も、時々、友達と会えるようになりました。
調子悪いのを考慮して、それでも、会ってくれた友達に感謝。
ようやくお母さんが仕事に行ける様になりました。といっても、週に2回、午前中だけだけれど。
なんたんがお留守番ができるようになったからです。
お父さんはまだひとり暮らしを頑張っています。
こうちゃんは、この年に大学を卒業して、就職して頑張っていました。
帰省するたびに、「姉ちゃんでゆっくりでいいんよ」って言ってくれて、涙涙でした。
退行がまだまだひどく、一日中退行している日も多かったです。
阿修羅もまだまだ出ていました。
上司にお願いして、一緒にお花を習いに行かせてもらえるようになりました。ここでの出会いにも感謝。
3月。大学の恩師が学校を変わることになって、みんなには会えないけれど会いたかったので連絡したら、ひとりで会う時間を作ってくださったので、母に連れて行ってもらいました。まだ、電車にすら乗れませんでした。だから、車で連れ行ってもらっていました。
この時が、ひとつの転機。
先生が「場の記憶」「負の記憶」について話してくださって、「そろそろ引っ越していいんじゃないかな」と言ってくださったので、遂に、廿日市からさよならすることを決意しました。主治医の先生が引越しを許可してくださったことに感謝。
25の6月。誕生日を前に、佐伯区に引っ越しました。
26の年。
佐伯区に引っ越してからは、ずいぶん楽になりました。
3年ぶりに家事ができるようになったり。
ゆっくり行けばよかったんだけれど、ここで転機が。
りゅーちゃんと出会ったことです。それで、一気に良くなろうと無理をしました。
一時期は、もう大丈夫じゃないかというくらい、急速な回復を見せましたが、それはやはり偽りの回復であって、本当の意味での回復ではありませんでした。
結局、その偽りの回復は10ヶ月で終わりました。そこからは、また寝たきりに近い状態に。
27の年。
りゅーちゃんと別れて、実家で暮らしていました。
佐伯区の家に帰るのは、一ヶ月に一回か二回。
そんな時、10月に出会った幼馴染のおかげで、引越しを決意することができました。感謝。先生もすぐに許可してくださったので、11月に佐伯区の家を引き払い、実家に戻りました。
実家に戻ってからは、徐々に元気になってきました。といっても、ほとんど何もできない状態でしたが。
3月。初めて、ひとりで旅行に行きました。そこで出会った人、そこでみた世界、色々なものがいい刺激となって、私の中に残りました。
4月。お手伝いを始めました。
28の年。
少しずつ、少しずつできるお手伝いが増えていきました。
運転を少しずつするようになりました。
旅行も楽しいです。
読書も再びできるようになりました。
ネットする時間が減りました。
今、着実に元気になっています。
薬も二年ぶりに減りました。
この6年、色々なことがありましたが、いろんな人の助けのおかげで、なんとか乗り越えてくることができました。感謝。
これからは、逆戻りしないよう、無理をせず、自分のペースで、元気になっていきたいと思っています。
完治に向けて。
目標は、大きく。だけれど、着実に。
これからの目標は、
家事ができるようになる。
↓
働けるようになる。
↓
薬がゼロになる。
↓
結婚できるようになる。
ですね。
今日はなんか、ながーく書きました。
最近、色々考えて、ついつい書いてしまいます。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
お母さん、連日ありがとう。
なんたんは、大分こだわりが少なくなってきました。
こだわったらしんどいから。
昔はいろいろなことにこだわってました。
結婚、出産、仕事・・・
特にこの3つがすごかったかな。
それも大分減ってきて、
結婚と出産については、大分認めれるようになったから、
友達や同級生が、結婚・出産してもしんどくありません。
まぁ・・・仕事だけはまだまだ時間かかりそうですが。
仕事へのこだわりがなくなったら、理学のみんなとも会えるかな。
まだ、理学の仕事の話は辛いです。
理学以外の仕事の話は大丈夫になりました。
結婚・出産の話は一緒に喜べるんだけれど。
まだまだ心の修行が必要ですね。
そういや、お父さんと普通に過ごせるようになったのは、何気にまだ2年なんですよね。
今だから話せる過去のぶっちゃけ話をお母さんがしてくれました。
23の年。
病気になったけれど、働いていました。この時は、一人暮らし。
働いている時、どんどんうつがひどくなってきて、朝起き上がれなくなっていきました。
最後の方は、6時に目が覚めるのに動けなくて、12時過ぎてなんとか動いて仕事に行ったり。
行く時には、運転しながら泣いていたり、発作が起きそうになったり。
朝礼では、毎日のように過呼吸発作を起こして、頓服飲んで、保健室で一時間ほど倒れていたり。
昼休憩は、職員といるのが苦痛で、車に行って、寝ていたり。
帰り道は、路肩に止めて、先輩に電話して、毎日のように20分以上泣いて話を聞いてもらっていたり。
リハビリ中に倒れたこともありました。その頃、携帯を持たせてもらっていたので、事務室に電話して、誰かに助けてもらいました。利用者さんには申し訳なかったです。
ありがたいことに、毎週木曜日は、病院実習でした。病院の先生たちに色々教わったこと、感謝しています。毎回宿題でヒーヒーだったけれど。そしてまた日曜日には、理学療法士会の研修で出かけて勉強会とか。うん・・・頑張ったなぁ。みんなにはついていけれなかったけれど。劣等生でごめんなさい。
園に残したことといえば、
リハビリの機器を揃えたことと、
記録物を作ったこと、
そして、私が設計したトイレを4つほど残したこと、ですね。
リハビリ機器は、メドマーとかを導入したりしました。
ホットパックとか。疼痛緩和のための物理療法器具を中心に揃えました。
車椅子の補助シートみたいなのを作成したりも。
書類作成は膨大な量でした。
リハビリをするために必要な書類がなかったので、
まずは、カルテ作成から始めました。
看護師さんが記録してくれていた膨大な量のカルテ(何十年分)を整頓し、記録し、
フェイスシートを作成し、
かかりつけ医師にみてもらう指示録を作成し、
その他色々な書類(頼まれたもの、リハビリと関係ないものも)を作成したりもしていました。
利用者さん全員の疼痛チェックシートも作成しました。
全員を聞いて回るのにかなり時間がかかりました。
ケア会議資料の準備・作成・まとめとかも。
書類を元に、利用者さんに予定を聞いて、予定を立てて、全員(約80人)にリハビリ体験をしてもらったりしました。
何十年かぶりに、旧作業棟が老朽化のために、新作業棟を新築することになり、そこに設置するトイレを完成させるまでは、なんか、休めないと思ったんです。
だって、任されていたから。
トイレの設計と、工事してくださる人たちとの話し合いとか。
設計に当たり、他の施設を見学させてもらったり、
資料を作成して、みんなの前で発表したり。
現場に足を運んで、最終調整をしたり。
そして、1月。トイレの最後のチェックが終わった日に、ついに園内で倒れて動けなくなり、上司の家に連れて行ってもらい、母に迎えに来てもらうことになりました。もう、運転すらできなくなってしまいました。
そして、次の日、病院に連れて行ってもらい、仕事を休むことになりました。
4月から1月まで、がむしゃらに走り抜けた理学療法士としての10ヶ月でした。(正確には、4月の一ヶ月は介護の手伝いだったので、リハビリに重点を置けたのは、9ヶ月。あたし、よー頑張ったわぁ。てか、頑張りすぎな気がする。新卒の新人がここまでするものなのかなぁ。一人職場で。でも、こんなものなのかな。もっとできたのかな。でも、私にはもうこれで精一杯だったんだ・・・)
その後は、実家に連れて帰られて、私は寝たきりになって、一日中泣いてたり「なんでなんで」といい、人を恨んでばかりいました。
ある時には怒り爆発して家の壁に穴開けたりしてました。本当にごめんなさい。
お母さんはまだフルで仕事していました。
昼休みの度に帰ってきてくれて、ご飯食べさせてくれて、また仕事に行っていました。
電話もメールも、テレビも新聞も全部ダメで、お父さんが新聞を見ているだけで、怒っていました。理不尽ですよねぇ。
一度病院を変更したんですが、病院に行く度に調子が悪くなるので、元の先生に戻らせてもらいました。先生最高!先生に出会えてなんたんは幸せだぁ。
実家にいても、父への反感が強くてしんどいばかりなので、廿日市の自宅に帰らせてもらいました。
お母さんはついて来てくれて、身の回りの世話をしてくれました。
お母さんはそのころ、安芸郡で働いていたのですが、廿日市から安芸郡まで通ってくれました。
お父さんは、実家で一人暮らしを頑張ってくれました。
お母さんは仕事が一日あって、終わってから、実家に寄ってお父さんのご飯作って、廿日市まで帰ってきてくれて、なんたんのご飯作ってくれて。
でも、そんな疲れているお母さんに私は一日の怒りをぶつけて、お母さんを正座させて毎日5時間近く怒っていました。お母さんおなか空いてたのにね。ごめんね。なんたんはアドレナリン大放出で全然おなかすかなかったんだけどね。あはは。
その頃、お母さんにはなんたん以外との電話とメール禁止令が出ていたんだけれど、実はこっそりしていたようで、今となっては安心です。だって申し訳なかったもん。
24の年。
廿日市でお母さんと二人暮し。
お母さんは遂に、仕事を辞めてしまいました。
そして、なんたんにつきっきりでお世話してくれました。
お母さんごめんね。ありがとう。
昼からお母さんはお父さんのご飯つくりに行って、夕方には帰ってきてくれていました。
なんたんは、お兄ちゃんがブログを教えてくれたので、てくてくを開設することができて、本当に救われていました。お兄ちゃんありがとう。
だって、なんたん、文字書けなかったもん。
人に判読できる文字が書けなくなってしまいました。
園で出会えた習字の先生のところに、行かせてもらえるようになったのも、この年でした。
先生との出会いには、本当に感謝。
文字が書けないなんたんが、習字は書けるんです。不思議です。
その前に調子悪くて泣き叫んでいても、退行しながらでも、習字はできたんです。受け入れてくださった、先生に感謝。連れて行ってくれたお母さんに感謝。
あの頃は、ブログを通して出会った、同じように心の病気で苦しんでいる方や、乗り越えられた方との関わりが支えでした。勇気にもつながりました。ひとりじゃないって。そして、元気になれるんだって。
一日中パソコンするか、寝るか、怒るか、泣くかでしたね。まさに阿修羅。人生の修羅場。大変だったわー。お母さん、よく耐えてくれました。感謝。
病院の診察が9時からなのに、しんどいから、毎週ドアの前に8時15分には居ました。今からではしんじられないくらい、早起きでしたよ。もう、先生が頼みの綱だったんです。今もだけどね。あの時は本当にひどかった。
そしてなんといっても、上司のおふたりの家。これが、最後の砦でした。調子が悪くなったら、電話して、お母さんに山道を30分かけて連れて行ってもらって、上司の家で、泣いて話を聞いてもらって、さくらちゃんと遊んで。そして楽になって帰る感じです。電話もたくさんしました。いつも優しく対応してくださってありがとうございます。本当に感謝。病院が一週間に一回が限度だったので、その途中でヤバクなった時の駆け込み寺でした。何回か、行く途中に走行中の車から降りようとしたりしてました。まだまだ希死概念がひどく強かったです。
25の年。
廿日市でお母さんと二人暮し。
ようやくお母さんのメール解禁。長く禁止していてごめんね。
24の時も、25の時も、時々、友達と会えるようになりました。
調子悪いのを考慮して、それでも、会ってくれた友達に感謝。
ようやくお母さんが仕事に行ける様になりました。といっても、週に2回、午前中だけだけれど。
なんたんがお留守番ができるようになったからです。
お父さんはまだひとり暮らしを頑張っています。
こうちゃんは、この年に大学を卒業して、就職して頑張っていました。
帰省するたびに、「姉ちゃんでゆっくりでいいんよ」って言ってくれて、涙涙でした。
退行がまだまだひどく、一日中退行している日も多かったです。
阿修羅もまだまだ出ていました。
上司にお願いして、一緒にお花を習いに行かせてもらえるようになりました。ここでの出会いにも感謝。
3月。大学の恩師が学校を変わることになって、みんなには会えないけれど会いたかったので連絡したら、ひとりで会う時間を作ってくださったので、母に連れて行ってもらいました。まだ、電車にすら乗れませんでした。だから、車で連れ行ってもらっていました。
この時が、ひとつの転機。
先生が「場の記憶」「負の記憶」について話してくださって、「そろそろ引っ越していいんじゃないかな」と言ってくださったので、遂に、廿日市からさよならすることを決意しました。主治医の先生が引越しを許可してくださったことに感謝。
25の6月。誕生日を前に、佐伯区に引っ越しました。
26の年。
佐伯区に引っ越してからは、ずいぶん楽になりました。
3年ぶりに家事ができるようになったり。
ゆっくり行けばよかったんだけれど、ここで転機が。
りゅーちゃんと出会ったことです。それで、一気に良くなろうと無理をしました。
一時期は、もう大丈夫じゃないかというくらい、急速な回復を見せましたが、それはやはり偽りの回復であって、本当の意味での回復ではありませんでした。
結局、その偽りの回復は10ヶ月で終わりました。そこからは、また寝たきりに近い状態に。
27の年。
りゅーちゃんと別れて、実家で暮らしていました。
佐伯区の家に帰るのは、一ヶ月に一回か二回。
そんな時、10月に出会った幼馴染のおかげで、引越しを決意することができました。感謝。先生もすぐに許可してくださったので、11月に佐伯区の家を引き払い、実家に戻りました。
実家に戻ってからは、徐々に元気になってきました。といっても、ほとんど何もできない状態でしたが。
3月。初めて、ひとりで旅行に行きました。そこで出会った人、そこでみた世界、色々なものがいい刺激となって、私の中に残りました。
4月。お手伝いを始めました。
28の年。
少しずつ、少しずつできるお手伝いが増えていきました。
運転を少しずつするようになりました。
旅行も楽しいです。
読書も再びできるようになりました。
ネットする時間が減りました。
今、着実に元気になっています。
薬も二年ぶりに減りました。
この6年、色々なことがありましたが、いろんな人の助けのおかげで、なんとか乗り越えてくることができました。感謝。
これからは、逆戻りしないよう、無理をせず、自分のペースで、元気になっていきたいと思っています。
完治に向けて。
目標は、大きく。だけれど、着実に。
これからの目標は、
家事ができるようになる。
↓
働けるようになる。
↓
薬がゼロになる。
↓
結婚できるようになる。
ですね。
今日はなんか、ながーく書きました。
最近、色々考えて、ついつい書いてしまいます。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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この記事にコメントする
無題
あたしが、チョコちゃんの辛さはほんの一部しか知らなかったんだね。
今まで、すごくすごく辛かったね。
でも、それに負けないでここまで歩いてきたんだね。
読んでて涙しそうになりました。
チョコちゃんの頑張りを見てると、自分がすッ語句小さく思えるよ。
やっぱ改めて思うのは、家族ってすごいね。
本当に思う。
自分がどんなに大変でも、いつも子供のコトを優先してくれて・・・
うちのおかんもそうだったから、なんかこの年になって考えると胸が痛むよ。
チョコちゃんがお薬も減って、また1つ元気になったことが、家族への何よりの恩返しだね♪
目標は大きく持つことがいいんだよッ!!
それが大事(´∀`)
あたしも今は何もない空っぽの状態だから何か夢や目標を持って1日1日を生きてゆこ~っと。
今まで、すごくすごく辛かったね。
でも、それに負けないでここまで歩いてきたんだね。
読んでて涙しそうになりました。
チョコちゃんの頑張りを見てると、自分がすッ語句小さく思えるよ。
やっぱ改めて思うのは、家族ってすごいね。
本当に思う。
自分がどんなに大変でも、いつも子供のコトを優先してくれて・・・
うちのおかんもそうだったから、なんかこの年になって考えると胸が痛むよ。
チョコちゃんがお薬も減って、また1つ元気になったことが、家族への何よりの恩返しだね♪
目標は大きく持つことがいいんだよッ!!
それが大事(´∀`)
あたしも今は何もない空っぽの状態だから何か夢や目標を持って1日1日を生きてゆこ~っと。
まろ姫ちゃんへ
最後まで読んでくれて、ありがとう!!
うん;;
いっぱいいっぱい辛いことあったよぉ・・・
でも、ここまでこれたのは支えてくれるみんなのおかげ☆
本当に感謝!!!
あたしも読み返して色んな思いが駆け巡って涙でちゃったwww
いつか笑顔で乗り越えれるようになったらいいな、と思うんだ。
いぁいぁ!!!
まろ姫ちゃんはまろ姫ちゃんですっごい頑張ってると思うよ☆
まろ姫ちゃんにも、私が計り知れない悲しみ、苦しみがあったと思うし><
それを乗り越えてこうして、前向きに生きてるまろ姫ちゃんに私は笑顔をもらっているよ☆
人´∀`).☆.。.:*ありがとぉ
うんうん!!
本当に、家族ってすごいよねぇ!!
私も改めて、両親・家族に感謝☆
今となっては申し訳ないことも多いけれど、それでもきっとね、私が元気になっていくのが最大のお返しだと思うのだw
まさに、まろ姫ちゃんの言うとおり♪
これからも、薬0を目指して日々精進いたします!!
☆゚.+:。゚ァリv(oゝω・o)vガト゚.+:。
まろ姫ちゃんも色々辛いことを乗り越えてここまできて、今、人生の夏休みを神様が与えてくださってるんだから、ゆっくりでいいから、目標見つけれたらいいねw
まろ姫ちゃんなら大丈夫さ b
うんうんw
一日一日、精一杯に生きましょう☆
誤字は気にしない方向でおkなのだ b
いつも、温かいコメント、。" ゚☆,。・:*:・゚★o(´▽`*)/♪Thanks♪\(*´▽`)o゚★,。・:*:・☆゚"
うん;;
いっぱいいっぱい辛いことあったよぉ・・・
でも、ここまでこれたのは支えてくれるみんなのおかげ☆
本当に感謝!!!
あたしも読み返して色んな思いが駆け巡って涙でちゃったwww
いつか笑顔で乗り越えれるようになったらいいな、と思うんだ。
いぁいぁ!!!
まろ姫ちゃんはまろ姫ちゃんですっごい頑張ってると思うよ☆
まろ姫ちゃんにも、私が計り知れない悲しみ、苦しみがあったと思うし><
それを乗り越えてこうして、前向きに生きてるまろ姫ちゃんに私は笑顔をもらっているよ☆
人´∀`).☆.。.:*ありがとぉ
うんうん!!
本当に、家族ってすごいよねぇ!!
私も改めて、両親・家族に感謝☆
今となっては申し訳ないことも多いけれど、それでもきっとね、私が元気になっていくのが最大のお返しだと思うのだw
まさに、まろ姫ちゃんの言うとおり♪
これからも、薬0を目指して日々精進いたします!!
☆゚.+:。゚ァリv(oゝω・o)vガト゚.+:。
まろ姫ちゃんも色々辛いことを乗り越えてここまできて、今、人生の夏休みを神様が与えてくださってるんだから、ゆっくりでいいから、目標見つけれたらいいねw
まろ姫ちゃんなら大丈夫さ b
うんうんw
一日一日、精一杯に生きましょう☆
誤字は気にしない方向でおkなのだ b
いつも、温かいコメント、。" ゚☆,。・:*:・゚★o(´▽`*)/♪Thanks♪\(*´▽`)o゚★,。・:*:・☆゚"